オレは急に怖くなって、老人から目を逸らして隣の部屋に駆け込んだ。
 周はベッドサイドの電話で英語を喋っているところだった。低い声で命令のような文句を言い終えると電話を切って、周はオレを振り返った。
「上には別の子を手配したよ。どうせお前を戻したって、また逃げるだろうしな」
 周の斜視がかすかに動いたような気がした。「さて」そう言うと、周は煙草をスーツの内側から取り出して咥えると、壁際のサイドボードから酒瓶とショットグラスを出してひとりで注いだ。
 オレはつっ立ったまま、周の煙草の先が燃えながら煙の筋をのぼらせるのを見ていた。
 く、と喉を鳴らして茶色の液体を飲み干す周は、まるで別人のようだった。
「これで大体、わかっただろ。天使の王国が、どういう所か」
 口の端で煙草を持ち上げて、周は目を細めた。これも、オレの知らない周の表情だ。
「表向きは、消費社会を批判して、清く正しい人間の理想社会を目指す宗教団体。でもその内幕は就学前の児童を含めた未成年者の売春斡旋。それにちょっと向精神性薬物の密造もしてるかな。立派な犯罪組織というわけさ───言ってる意味、わかるか?」オレがずっと黙っているのを、まるで心配するように窺う。そしてまたグラスに酒を注いだ。
「そこで俺はこうやって月に一度、パーティーと称して顧客を集め、商品を送り届けてるというわけさ。幼い子供にセックスを求める、下衆な連中にね……」
「そんな話、オレは一言も聞いてない」
「教えるもんか。セックスの意味を話したってわかる年頃でもない。こうやって何も知らせずに、いきなり大人の相手をさせるんだ。大人は恐怖と痛みに泣き叫ぶ子供に興奮して、快感と喜びを味わう……反吐の出るような真実さ」
「みんな…そうだってのか。あそこにいる子供たちは、みんな」
「全員が対象だ。ただ、選ぶのは顧客だ。運が良ければ選ばれない子供もいる。だが俺達は、能率よく商売しないとやっていけない。顧客を飽きさせないために、新人の教育にスカウトだってやる…お前みたいな奴は格好の獲物ってわけだ」
オレは乾いた口の中に唾を飲み込ませた。
 当時のオレのその手の知識は、おそらく世間一般の同い年の子供よりは大分わかってた方だと思う。第一、クソオヤジの奴がひっかけてくるのはその手の女ばかりだったし、無修正本もエロ劇画も部屋に散らかしっぱなしだったから。けれどもオレが見てきた中では、子供や男相手のその手の記事は見当たらなかった。“セックス”という言葉と、自分がどこでどう繋がるのか、当時のオレにはまったくわからないことだった。
「お前みたいに逃げ出す子供は少なくない。けどな……結局逃げたって無駄なんだってことがわかる。この場所で生きるしかないんだよ。帰る場所なんてもう消えちまってるんだから。まあ、ここだって慣れればそう悪くない。好きなものは食えるし、欲しいものはなんでも与えられる。今までの暮らしと比べたら、誰でも最終的にはこっちを選ぶさ───今日は見逃してやるけどな…この次はないぞ。もし次もやらかしたら、お前を逃げられないよう縛り付けて、一度に数人の相手をさせることになる」
 最後の言葉が、オレの耳に残酷に響いた。
 そうだ。オレの家は…もうない。親父も、血の繋がらない母親と兄弟も、オレとの繋がりを切られてしまったんだ。無理に戻ろうとすれば、オレがそこにたどり着く前に、全員殺されてしまうんだろう。それで、すべての容疑をオレにかけるんだ。
 たぶん。
 犯罪者になってこの先一生を刑務所で送るか、男娼になってここで客を取らされ続けるか。当時のオレの頭ではここまで整理できなかったが、どちらかを選ばなければならないのは、勘でわかった。でも───
「やだ」
 オレは三杯目の酒を注いでいる周に向かって言った。
「そんなの…やだよ。家には戻りたくないけど……そんなことをさせられるのは、嫌だ」
 周は冷たく横を向いたまま、酒を飲んだ。こうやって駄々をこねる子供を、もう何人も見てきたのだろう。こいつもか、と半分呆れているようだった。それを見たら、オレは何だか腹が立ってきた。それで、つい言ってしまった。
「あんたが守ってよ」
「………は?」
 口から酒臭い煙を吐き出しながら、周は素っ頓狂な声を上げた。「なに?」
「あんたが、オレを、守ってよ!」
 オレは声を張り上げた。周は飲みかけのグラスと短くなった煙草を持ったまま、茫然とオレを見ていたが、やっと意味を飲み込めたらしい。
「やっぱり面白いよ、お前は」
 そう言ってバカみたいに笑い出した。笑いながらよろよろ姿勢を崩し、グラスの酒をこぼしながらオレに近寄ってきて、膝を折った。煙草を一度強く吸いつけ、グラスに放り込む。そしてオレの顔に煙を吹きかけながら周は言った。
「悪いけど、できない相談だよ………今はね。……でも、ま……そのうち…もしかすると……かな」
「はっきりしろよ」
 周はうーんと唸って、オレの顔に手を延ばしてきた。あ、と思って身を引く前に、オレに口の上に周の唇が重なっていた。
「んんんんんっ!!…んっ!んんーーっ」
 首根っこを掴まれて、逃げないように抱え込まれると、背中にベッドの羽根布団の感触がふわっと跳ね返ってきた。
「ちょ、周!」
 唇がずれた瞬間、毒づこうとしたオレだったが、またすぐに塞がれた。今度は舌が入り込んでくる。強い酒の苦いような味とぴりぴりした刺激、甘く濃厚な息とともに、ぶあつい濡れた舌がオレの口の中をまさぐる。粘膜を舌先で擦られて、寒気が走った。
 オレの舌に周の舌が巻きついてきて、強く吸われる。舌と舌が絡むと、寒気よりも強い、何ともいえないものがこみ上げてくる。喉に流れてくるオレと周のとが混ざった唾液を飲み下し、オレは叫ぶことも出来ずに周の下で呻いた。
 やっと開放される頃には、オレは水から上がったみたいに大量の涎を吐き出しながら空気を吸っていた。舌を喉の奥に突っ込まれたせいで、咳も出た。苦しくなって背中を丸めようとしたら、その腕をとられてベッドに磔にするように上から押さえ込まれた。
 オレは涙目で周の顔を見上げた。周は笑い顔のような微妙な表情でオレを見つめていた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
十一