オレは件の黒木柳介のところでそのまま生活することになった。
 最初に会った印象どおり、変な男だったが、一緒に居ても苦ではないからオレは居座ることにした。でも、名前は偽名を名乗った。“御陵”は新聞で見たどこかの商店から、“ヒズル”は適当に頭に浮かんだのを付けた。天使の王国についての事件捜査は始まったばかりで、オレの身元がばれるわけにはいかなかったから。
 黒木は疑いもせずにオレをその名で呼んだ。そうして、一年が過ぎていった。


 オレは十年ぶりの土地の、あまりに変化のない様子に素直に驚いた。
 
 テレビで偶然、かつて自分が暮らした場所を見たオレは、その後すぐに番組のエンドロールに流れた商工会議所に電話して、鉄工所の住所を聞くことが出来た。それから電車に乗って、タクシーで目的地に着く頃には日は落ちて、おまけに雨も降りそうな気配になっていた。
 鉄工所の一帯は、あれからどうやら整備されることはなかったようだ。しかし建物も道路も老朽化を放置されて、車の進入はだいぶ手前で禁止になっていた。
 オレはタクシーの電話番号を貰うと車を降りて、記憶を頼りに歩き始めた。
 潮の香りが漂ってくる。
 こんなに海が近かっただろうか?オレはその違和感に、不安になったが、しばらく行くと、見覚えのある木製の電柱が、あの時と同じ、しょぼい光を灯していた。
 オレは気がはやる思いで灯りの下をくぐり、鉄工所の脇の階段へ向かった。
 階段は、危険、と書かれた看板が針金で括り付けられていたが、オレはそれを無視して上った。あの頃は五段目だけが抜け落ちていたが、今はその先のいくつかも大きな穴が開いて、手すりは殆ど全部が腐っていた。
 それを慎重に上りきって、オレはようやく事務所のドアの前に立った。そこで、オレはやっと我に返った。
 何やってんだ?オレ。
 ここに来たからって、何があるっていうんだ?
 大体、鍵だって開いているはずが────と、思ってドアノブを引くと、ドアはすんなり開いた。オレは笑いたくなった。

 中には、何もなかった。家財も当然ながら、人の気配もなかった。白い壁を、窓から差す遠くの街の光が暗く照らしているだけだった。
 しかしオレの頭の中には、あの時の部屋が鮮明に蘇っていた。ここにベッドがあって、冷蔵庫が見えた。一度しか寝泊りしていないのに、子供の頃の記憶は鮮烈だった。
 オレはしばらくそこに佇んでいた。窓からは、遠くに港の明かりが見えていた。
 ぽつり、と窓が水滴に濡れて、雨が降り出した。
 一気に振り出した雨音を聞きながら、オレは煙草を取り出した。
 一服したら帰ろう、と思った。その頃には雨も止むような気がした。
 一本目を吸い尽くして、吸殻を靴底ですり潰そうとした時、コーヒー缶が目に入った。ちょうど窓の下に、ぽつんと置き去りにされた空き缶は、オレを釘付けにした。
 ただのゴミだ。誰かが気まぐれにここに入り込んで、飲み捨てていっただけの。
 しかしオレは缶を拾い上げた。飲み口に突っ込んである煙草の吸殻は、オレと同じマルボロだった。どこでも売っていて、誰でも吸う銘柄だ。コーヒーも、特別に珍しい種類じゃない。
 だけど、オレの手は震えていた。
これが、いつ置かれたのかなんて、わからない。わからないが、これを置いた人間が誰かを考えると、オレは沸き起こる衝動を止められなかった。

「おかえり」
 背中に気配を感じて、オレは言った。そして振り返った。肩をぐっしょり濡らした周がそこに立っていた。ネクタイはしていなかったが、スーツを着て、少し伸びた髪以外は、何も変わっていない。斜視もそのままだった。
「ポン引きみたいだな」近づいてきた周にオレは言った。「元気か」
 周はオレの横に並んで立つと、窓に目を向けた。
「帰ろうとしたら急に降ってきた…天気予報じゃ何も言ってなかったのにな。タクシーはつかまらないし…」
「こんな場所じゃな。オレ、タクシーの携帯知ってるよ。電話してやろうか」
「うん。悪いね。あと、火、貸してくれる」
 周は自分の箱から一本取り出して言った。オレは自分も一本咥えてからライターを取り出し、ふと思いついてまず自分に火を点けてから、煙草の先を周の煙草の先に重ねた。パチパチと小さな音がして、周は火を移し取ると、横を向いて深く吸い込んだ。それから長々と煙を吐いて、周はごめん、と言った。
「謝るなよ」
 オレは横目で周を見た。
「お前を騙す気はなかった」
「だからもういいって」
「………」
「で?いつ帰ってきたんだよ。日本に」
 オレは窓の方を向いたまま尋ねた。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
十一