ようこそゲストさん

きまぐれstyle 下手っぴでもイイじゃない?


Total Today Yesterday
いらっしゃいませ! きまぐれSTYLEcafeへようこそ!
新しくブログ+ウィキ形式でサイトを再構築中です。初めての方も常連の方も、どうぞよろしくです!
旧サイトへはこちらから

natsumi ~教授と少女

創作小説
 特に先だった約束事もなかった午後、僕は気晴らしに表に出ることにした。
 ここのところ気がつけば夕暮れで、そこから寝るまでの時間が実に慌ただしい。だというのに日中を有意義に過ごしているかと言えば、恐らくそうではない。目を閉じる頃になってあれをやっておけばよかったと思い返すこと度々で、かなりの猶予がありながら何をやっていたのかとんと覚えがないのだ。きっとこのままでは今日も同じ繰り返しである。悪循環のスパイラルを断ち切るには今までとは違った行動をとるべきなのだ。
 だが歩き出して気がつく。はてさてどこへ向かおうか。目的地を決めなければ進めないほど思考が凝り固まってしまっているようだ。はふんと吐息をついた後、僕はおもむろに足を進めることにした。数週間ぶりになるだろうか。青々と茂っていた雑木林の緑は幾分か勢いが薄れ、低くなった下草が向こうの通りを覗かせている。日差しは強いが真夏のそれよりは穏やかになっている。これで心地よいそよ風が舞えば季節を感じ得ずにはいられないだろう。
 残念ながらそれが訪れる間もなく、小奇麗でアンティークチックな扉を付けた一件の店が視界に入った。
 クイントベリーは近所でも知られた喫茶店である、はずなのだが、何故か本来の機能よりも酒屋に近い営業をしている。せっかくあつらえたアンティーク様式の家具類は累々の酒瓶棚にされてしまい、来客は安楽椅子よりもディスカウントショップでまとめ買いしたパイプ椅子に座らせられることになった。そんな少々道を誤ったクイントベリーであるが、僕はコンビニよりもずっと愛用していたのだ。
 扉を開ければカウベルの代わりに蝶番が軋みをあげ体の良い呼び鈴替わりになっている。所狭しと積み上げられた酒のケースの向こうに申し訳程度のカウンターが顔を出していた。そして手前から二つ目の席には、どうやら今日は当たりらしい、彼女が座っていた。
「マスター、ブレンドをホットで一つ」
 わざわざ彼女を避けて奥の席に割り込んで、僕はいつものオーダーを告げた。
「この暑いのにホットで頼むなんてどうかしてるわ。もっとも、ここでまともにオーダーしてる客も珍しいけどね」
 独り言のように彼女は皮肉たっぷりにつぶやく。それはあてつけだと取るべきなのだろうか。ただ、それ以上の言葉を紡ぐこともなかったから、あえて聞き流しておく。最初に映ったときにポロシャツだと思ったのだが、実はノースリーブに近いブラウスだった。ロングのフレアスカートでも履いていれば何処かへ散歩に出かけたのかと思ういでたちではあるが、スリムのスラックスにパンプスと来れば諸用に最中なのかもしれない。それにしてもホワイトを基調にしたパステルカラーでまとまった姿はこの店に眩しすぎる。琥珀の液体はそれだけでカフェオレになるだろう。しかし、彼女の脇をすり抜けた時に鼻腔をくすぐったのは紫煙の残り香だった。
 出されたカップをブラックのままで一口頂いてから僕は彼女に向き直る。それがいつもの合図であるからして。
 彼女の名前は有瀬菜摘。
 希代の魔法使いにして現代を生きるクールな女性。
 僕の願望を一身に受けて光り輝く赤色の代行者。
 彼女と言う人物をもっと知るために、言葉を交わして深く追求してみたいと思っていた。そばにいることは叶わなくても、その片鱗に触れることが許されるなら、彼女の軌跡を少しだけ記録して保存しよう。
 飾り時計が鳴り始め少しだけ静寂を破る。短針は水平を沈みゆく。そういえばあの時計は彼女のお気に入りではなかったか。自然と彼女の様子を伺っている自分がいた。相変わらず無表情でいながらも瞳は踊る飾りを追い続けていた。あの絡繰人形にどんな思いを寄せているのか、機会があれば是非聞いてみたいものだ。今はきっと何を訪ねても届くことはないだろうから。

 有瀬菜摘。年齢不詳の女で、初めて出会ったのは2年ほど前、英雄伝説の続編を構想し始めて設定を考えていた時だった。その頃の彼女はまだ学生で初々しさを醸し出している少女だった。かねてより影響を受け続けてきたヒューマノイド型巨大兵器を軸にした物語は彼女のせいで頓挫して一変、学園伝奇物へと様変わりしてしまったのだ。強烈な個性があるわけでもなくスタイルも中の上、愛くるしさも麗しさも兼ね揃えているわけじゃない。ただ、その瞳の奥に秘めた赤紫色の空間に僕はいつの間にか取り込まれてしまったようだった。
 飾り気がない女だと思う。それでも醸し出されるほのかな色気は大人の女とも違う。魔性の香りと形容したらどうだろう。いや、きっとそれも違う。高価な金品が無くとも彼女は高貴な装いに見え、礼節完璧でもないのに一つ一つの仕草に品がある。
 ああ、そうか。彼女自身が高邁な存在であるからこそ、その全てにおいて感じるのだと、僕は自分の半分ほどの年齢と思われる少女に憧れたのだ。

「呼び出したつもりはないのだけど、せっかくだから付き合うわよ」
 どのような意図があって口にしたのか検討はつかなかったが、願ってもいない機会を頂いたものだ。僕は少しだけ頬が緩むのを感じつつ話を切り出すことにした。

 店を出てゆっくりと歩を進める。並んでというよりも、彼女が一歩先に進んでいる。だというのに僕の選ぶ道を先回りして先導している。気ままに歩いているはずがいつしか彼女のあとを追う羽目になっている。どちらが付き合っているのか釈然としない。それなのに、不思議と悪い気はしないのだ。
 170cmほどある彼女の背丈は僕とほぼ変わらない。ヒールを履けば見上げる高さになるだろう。その高さが心地よい安心感を与えてくれる。揺れる髪が楽しげに踊っているようだった。
「新作には、私は登場するのかしら?」
 唐突な質問に僕は立ち止まってしまう。
「ああ、別に他意はないの。貴方とだからなんとなくそんな話になると思って聞いてみただけ。もちろん出してもらえるなら嬉しいわ。クインベリーで見つけた数少ない旧友としてね」
「それは皮肉かい? もっぱら酒飲みしか集まらないあの場所で肩身狭くお茶してるなんて僕らくらいだとは思うけれど」
「悪い意味で取らないで。これでも高く評価してるのよ? 大して豆を在庫しないマスターに貴方が来るからってことで喫茶店として機能させてるんだから。おかげで私も堪能できてるわ。マスター、珈琲淹れるのだけは上手いから」
「そんなことだろうと思ったよ。いや、君に何かを期待する僕が間違っているな。所詮しがない物書きの戯言。君のことを飯の種にしてるくらいだから文句なんてとんでもないことだ」
「あのね、いつから貴方そんな卑屈者になったのよ」
 立ち止まった彼女は背を向けたまま、少し苛立ち混じりに言い放つ。
 しまったな。しばらくぶりだというのに言葉が過ぎたようだ。スパイラルを断ち切るつもりだったのに彼女まで巻き込もうとしている自分に気がついた。
「ごめん。そんなつもりじゃなかったんだ」
「いいのよ。どうせ篭っているうちにネガティブ思考が抜けなくなっちゃったんでしょうから。多少は覚悟してたわよ。その顔を見た時からね」
「あ、いや、そんなにひどい顔してた?」
「当たり前じゃない。なんで私が付き合うって言ったのか、これで分かったでしょ」
 そして彼女はゆっくりと僕に振り返った。
 やはりその赤紫色の瞳に囚われているのは僕の方だった。

 星鈴学園という幼児教育から大学院まで一貫教育を目指す指折りの学校法人がある。僕の仕事場兼住居から目と鼻の先にあるこの学園は菜摘の母校でもある。休み時間ともなれば部屋の窓から生徒達が顔を出して談笑している姿も垣間見ることができる。自分にもあんな頃があったんだと、思い返しては自己嫌悪に至るわけなのだが。ここから見える校舎は高等部のもので中等部までと大学院施設は別の敷地にあるそうだ。ただでさえ膨大な数の生徒数だというのにこの程度の建物面積ですべての人間を吸収できるはずもないだろう。菜摘が在籍した当時で1学年28クラスあったらしいからその凄まじさは想像を絶する。
 僕が知る限りでは高等部に指定の制服はあるものの、基本的に色や体裁を外れなければ私服でも構わないとのこと。毎朝様々な趣向を凝らしたファッションで登校してくる生徒たちを見るたびに羨ましく思ったものだった。なにせ僕の時代にはネクタイ一つ違っただけで校則違反だったのだから。そんな星鈴だから上から下まですべて既存の制服姿でいれば逆に目立つもので、初めて菜摘と出会ったときの姿を思い出してしまう。

 それはとある平日の午前中のことだった。
 少し肌寒さを感じる夏前の季節、タバコを買いに出た帰りの公園で、もうすでに衣替えは済んだと思っていたのに冬服でベンチに座り込む少女がいた。
 綺麗に伸びた髪の毛とシワのない真新しさの残る制服姿はどこか精巧に作られた人形のように思えた。うつろな表情がどこか儚げにも感じられた。触れれば消えてしまうとはまさにこのことではないかと悟ったくらい存在感がなかったのだ。

 扉を強く叩く音で我に返る。慌てて玄関へ向かうと猫なで声が喚いていた。
「せんせー、できましたか? 早くしてくれないとあたしが怒られちゃいます!」
 鍵を開けるやいなや、飛び込んできたのは平沢アイカだった。
「さっきから呼んでるのにちっとも気づいてくれないなんて、もしかしたら没頭しちゃってあたしが今日来るの忘れちゃってるのかと思っちゃいました」
「ああ、うん。実際忘れてたんだ。ごめん」
「うわ、酷いです。ちゃんと昨日メールしたし、電話も入れたし、FAXだって送ったのにどうして忘れちゃうんですか! とりあえずもういいです。お邪魔します。喉が渇いたのでお水ください。ううん、さっきコンビニで買ってきましたから、はい、これ差し入れです。ちなみにビッグプリンはあたしのですからダメですよ?」
 一方的にまくし立てて完結した挙句、彼女は何事もなかったように上がってきた。彼女は僕の作品を校正して編集する出版社の人間。今時イチイチ作家のところに足を運ぶのは連載開始当初か終了間際だけと思っていた。パソコンでの打ち込みが多くなった現在、原稿はメールで編集部に送信すれば事足りてしまう。それを足を使って取りに来るのだから変わった女性だと言えよう。
「見てください! 今日は新発売をゲットですよ? 期間限定ミックスフルーチュプリンです。どうです? 食べたいですか? 食べたいでしょう? 残念ながら1個しかありませんでしたのでせんせーのはナシです」
「ああ、仕方ないな。それで今日はどうしたの? 何か急ぎの用事でもあったかな」
「何言ってるんですか! お仕事ですよ。締切過ぎてます。ほらほら早くしないと部長に怒られちゃいますって。あたしがはむっと堪能してるあいだにササッと書き上げてくれちゃえば、うんうんこのことは勘弁してあげちゃいましょう。頑張って部長を説得しちゃいます。ええ、毎回せんせーにはいいお話書いて頂いてますからね。少しくらいだったらあたしも一肌脱いじゃいます」
 その言葉が本心かどうかは定かではないが、明らかに意識はその手に持ったミックスフルーチュプリンに集中している。むしろそっちの事しか考えていないだろう。スプーンで掬い上げられ、今まさに彼女の口元にその欠片が吸い込まれようとしていた。
「でも、今月分は先週取りに来たじゃない。早くて助かったーって喜んでたのはアイカちゃんじゃなかったっけ?」
 ピタリと動きが止まる。いや、止まっているようだが小刻みに震えているようにも見えた。
「なんだったかな、来週はお休みしてもいいですかー的なこと言ってた気がするんだけど。違ったかな? まあ、いいや。来月分はもうしばらくかかるから待ってても上がらないと思うよ。どうするの――」
 と、その時電波系な着信メロディが鳴り響いた。残念ながら僕はその手の着信設定をしていないから僕の携帯ではない。数十秒沈黙が続き、曲が止まる。
 なんとなく流れが理解できた。

 アイカは決して悪い子ではない。むしろ好感の持てる元気で活発な子だろう。そもそも既に成人してる女性を子供扱いするのはいささか気が引けるのだが、彼女自身子供っぽさが抜けきらない。考え方が幼稚な面が多いし、駆け引きも下手くそで、何かとモノに釣られるあたり自制心を養うべきだとも思う。それでいてその容姿と比較するとびっくりするのだ。
「すいません、せんせー。あたしとんでもない思い違いしちゃってました。ゴメンなさい。先週入稿したのすっかり忘れてて、……プリンのことばかり考えてたみたいです」
「いやなに、僕はちっとも構わないんだけどね」
「ああ、せんせー! お願いであります! 部長には今日は大事な相談事を持ちかけられたということで話を合わせておいてください。次回の作品についてとかそのまた次の作品とかそれ以後とかなんとか」
「うん、それは良いんだけど……」
「さっすがせんせー! やさしいです!」
 ガバっと立ち上がったと思うと、アイカは僕の頭を抱きしめて来た。感激の抱擁で彼女の胸に埋められることになる。気持ちいい、訳が無い。苦しい事この上ない。おまけにブラのワイヤーや縫い目が当たって頬が痛い。
 アイカは英国人ハーフである。身長185cmもあり顔一つ分は違う。背丈だけならともかく体格も全てビッグサイズである。遠目から見ればちょっとふくよかなモデルさん位には見えるかもしれない。しかし、間近で見ればビッグマムそのものと言えるだろう。きっと洋服には苦労してるに違いない。
「苦しいから。アイカちゃん、窒息するって」
「うは、ゴメンなさい! 興奮しちゃいました。お詫びに1個しかないミックスフルーチュ、半分差し上げます。次からはこんなことがないように頑張りますのでお許し下さいー」
「それはせっかく買ってきたんだからアイカちゃんが食べるといいよ。部長さんには僕から連絡しておくからスケジュールを確認しておきなよ」
「せんせぇ…… ありがとうですぅ」
 ちなみに、今日のアイカは非番だったらしい。
 だというのに出勤してきたアイカを見て気になった部長が確認の電話してきただけだったのだ。

 30分ほど後、僕らはクインベリーにいた。
 自らの失敗により休みの日の予定が立ち消えになったアイカは帰ることも億劫になってしまったらしい。その日暮しの色が見え隠れする彼女のことだから、おおかたチェックしていたバーゲンセールを諦めてこちらで羽を伸ばす算段でも着いたのだろう。出かける僕のあとにひょっこりと付いて来たのだった。
「せんせー、おでこが痛いです」
 マスターに出してもらったお手拭きタオルを額に当てて涙目混じりにつぶやく。
「まさか本当にぶつかるとは思わなかったよ。きっと君が初めてだね」
「全然嬉しくないです。あたしが無駄にでかいってはっきりしちゃっただけじゃないですか」
 無駄とは語弊があるかもしれないが、アイカがこの店に入るには入口の設置サイズが幾分低かったようだ。アンティーク調ではあるけれど、クインベリーはれっきとした日本建築様式だ。当然日本人サイズで建てられている。しかし平均身長が僕の世代よりも数十年前の建物であるからして、現在の基準よりもはるかに丈は低いのだった。思えば僕の背でも余裕はわずかしかない。加えて、扉の根元が段になっているのなら上方不注意が起きても致し方なかろう。促さなかった僕が悪いのだ。
「特製あんみつをおごってあげるから、そんなに拗ねないでよ」
「うー、拗ねてなんかないですよー。せんせーが意地悪だって今更気付いて騙された気分になってただけですよー」
 どこに違いがあるのか問いただしたくなったものの、出されたあんみつを口に含んだとたん満面の笑みを浮かべるあたり、現金なものだと苦笑してしまった。ああ、そういえばあの時もこのあんみつで笑顔をもらったんだな。一度も僕は食べたことがなかったのにそれを見てからこのあんみつが笑顔になる特効薬だと思い込んでるのかもしれない。

 あの頃はマスターにも爽やかな黒髪が光ってて、いかにもジェントルマンを気取れるスタイルだった。今のようにテーブルに酒瓶ケースが積み上げられてることもなくて、本当におしゃれな喫茶店だったのだ。お客も飲んだくれなんて一人もいなかったし、良いとこのオジサンオバサン連中が優雅なひとときを満喫しに来てくれるくらいには繁盛していたのだ。
 そんなクインベリーに初めて入ったのは、こともあろうか星鈴高等部の女子学生と一緒だった。
「いらっしゃい。貴方は確か…… そう、作家の先生でしたよね? はっは、隠さなくても知ってますよ。こういう店をやってるとね勝手に情報通になってしまうんですよね。近所で売れてる作家を知らないなんてモグリもいいところですよ。ええ、皆さん噂されてますから」
 当時のマスターは見た目によらず相当なおしゃべり好きで来るたびに何かしらの話題を振りまいてくれていた。そのおかげで僕も彼女も気兼ねなく打ち解けることができたんだと思う。きっとここに来ていなければ、彼女のその瞳に囚われることはなかっただろうけど、彼女と知り合うこともなかったに違いない。
「作家? 小説家? おじさん、物語を書いてるの?」
「あ、ああ。やっと口をきいてくれたね。まあ、これでも駄文で飯が食えてることには変わりないかな。色々と期待されてるみたいで本当に申し訳ないけど」
「ふーん。凄いんだ。じゃあ、私もその物語に出られるかな? どこかのシーンのチョイ役で構わないから居てくれたら嬉しいな。私がここにいるって実感できるから」
「は? いや、まあ、それは構わないけど、どうしてそんなことを僕に?」
「だって貴方、物語を書いてるんでしょう? 貴方の作る世界の中に私が登場するなら、それだけでも私の存在意義があるじゃない。ううん、気にしないで。こっちのことだから。それよりお願い。私をお話に出演させて。私の名前だけでもいいから」
 それまでうつろだった表情に懇願の生気が満ちていた。ああ、こんな顔もできるんじゃないか。そう思ったら彼女の別の素顔も見たくなった。顔立ちは決して悪くない。美少女でもとびきり可愛い子でもないけれど、きっとこの子は魅力的だ。そう直感していた。

「ごちそうさまー あんみつがこんなに美味しいとは思わなかったですよ。あたし和菓子ってあまり好きじゃなくて。スイーツは選り好みしないんですけど、和菓子だけはずっと苦手で。ほらパサパサしてるって言うか甘すぎるっていうか、ケーキとかと微妙にニュアンスが違うと思いません?」
 確かにたくさん食べるものではない、という点においてニュアンスは違うものだと思う。それを言うべきかどうか僕はしばし悩んだ。
「でも、ここのあんみつって甘いんだけど程よい甘さですごく舌触りがいいの。後味もすっきりしてるし、一つ食べるだけですごく満足できちゃったの。こんなの初めてですよ? さすがせんせーです。あたしの預かり知らぬことをまだまだ秘めているようですね。今回はこれに免じて許して差し上げましょう。ええ」
 アイカは大層気に入ったようだったが、お代わりは結局頼まず僕と同じブレンドを1杯追加。それからしばしマスターとの会話を楽しみ、飾り時計が動き出したところを見計らって僕は席を立つ。
 今日はごちそうさまー といつになく殊勝な挨拶を残して彼女はバス停に向かっていく。あの程度で喜んでもらえるなら安いものである。さすがに毎回となると困るのだけど。それよりも先程からちらつく過去の記憶が気になって仕方がなかった。まさか今の今まですっかり忘れていたのには薄情なやつだと思うしかなかったのだけど。
 見送った姿勢のままぼんやりとしていると不意に肩を叩かれて驚いた。
「よお! 教授! 久しぶりじゃん」
 初老の男、にしてはだいぶ軽いノリではあるが、幾分か白スジが多い頭と抱えた太っ腹を見れば到底僕と同い年とは思わないだろう。だが、彼は正真正銘僕の同級、加賀谷寿史であった。
「ああ、久しぶり。帰りか? 今日は早かったんだね」
「研修でな。俺、寿史だけにひさしぶりなんちて!」
「夏なのに寒いよ。奥さんとは上手くやってるのかい?」
「それがさ、最近冷たいんだよな。なんとかってドラマにハマってるらしいんだけど、そればっかでよ。イケメン追っかけるのは構わんが俺もちょっとは相手してくんないかな」
 寿史は星鈴学園で数学の教師なんてものをこなしてるバリバリの教育者だ。彼に教授なんて呼ばれてるが、彼の方がよっぽど教授らしいと思う。典型的なオヤジ風体ではあるが、ユーモア溢れるトークで昔から人気者だった。今でもそのジョークは健在らしい。星鈴には彼も含め僕の知る人間が数人勤めている。流石に全員と会う機会は滅多にないが、そのなかでも比較的頻繁に会っているのが彼だった。腹を見ての通り無類の酒好きな彼は三日に一度はクインベリーに寄っていく。そこにたまたま僕が居合わせるのがいつものパターンだった。
「しかしよ、さっきの姉ちゃんでかかったな。すげえビッグサイズだよ。うちの嫁さんなんか問題じゃねえや。いつの間によろしくやってんだよ、コノ!」
「残念ながらそんなんじゃないよ。出版社の編集の子。想像するのは勝手だけど、現実は甘くないよ」
「んなことあるか。うちの見てみぃよ。二人も産んだらしぼんじまって悲しいったらありゃしない。おっぱいはドーンとおっきくなきゃいかん。それこそ男の夢。男のロマン。そうだろ?」
 恥ずかしいことこの上ないオヤジトークを夕方とは言え明るいうちから外で話せるのはきっと彼だけだ。そう、あの頃からずっと変わってないのも彼だけだろうから。
「なあ、教授。ちょっとだけベリーに寄ってこうぜ。なあに、飲むわけじゃなくてよ。ちょっと話がしたい気分なんだよ。良いだろ?」
 僕は苦笑して彼の誘いに相槌をうち、出てきた店にもどる羽目になった。

 もう20数年も昔のこと。
 その頃はまだ星鈴学園なんて設立されてなくて、僕らは近くの進学校と名高い公立高校へ入って出会った。いかにも軽薄そうなくせに要領の良さで切り抜ける寿史に対して、僕は必死になって勉強しても上の下程度の成績。ルックスにしたって童顔っぽい僕がポーカーフェイスの似合う彼の人気に敵うはずもなく、羨む日々を送っていたのだ。そんな彼が僕を教授と呼ぶようになったのは些細なきっかけからだった。
「お前こんなことよく知ってんな。やっぱ知識のある奴は違うよなぁ。勉強できてもそれを活かせる奴とそうじゃない奴がいるだろ? お前は間違いなく活かせる奴だよ。俺が保証してやるよ」
 それまでの劣等感が嘘のように氷解して、僕は彼とともに過ごすことが多くなった。悪い遊びも覚えたし、夜遊びだって試みた。先生が気に入らなければ論破してみせたし、二人でかかればなんでもできるんじゃないかとまで思えた。それが若い頃の勘違いと言うものなんだろう。所詮は浅知恵でしかなく、同世代よりも少しだけ知恵と知識があったから大人になった気でいたのだ。
 それを気付かせてくれたのが一人の女子だった。

 先程までの物静かな店内と売って変わり、ひっきりなしに客が出入りしている。マスターは相変わらずカウンターに直立しているものの、奥さんと娘が入口で忙しく対応している。酒屋としてのクインベリーの姿だった。
 マスター自身酒屋をやるつもりはなかったと公言している通り取り扱い免許は持っていない。が、奥さんが元々卸酒屋の娘であったために始まった政策だという。こじんまりとした喫茶店経営で生計が立つはずもないのは明らかで、丸々酒屋にするのは流石に奥さんも忍びないと思ったらしく昼間は喫茶店、夕方から酒屋と変貌するのがここクインベリーなのだ。
 客の流れを尻目に僕らはカウンターから追い出されて隅の丸テーブルで顔を付き合わせていた。もちろん寿史は今夜のお供を取り置き済みだった。
「混んできたな。タイミング悪かったか?」
「仕方ないよ。寿史の時間に合わせたらどうしたってかぶっちゃうよ。まだ飲み客がいないだけマシかな」
「悪いな。本当は家に寄ろうかと思ってたんだけどな。仕事場で辛気臭い話するもんじゃないだろ? どうするか悩んでたら今日お前のことそこで見つけてさ。思わず声かけちまったってわけ」
 そんな遠慮をする仲でもないだろうに、と思いつつ彼の切り出しそうな話題を探ってみる。僕に話を持ちかける時点で仕事関係は除外してよさそうだ。もっとも愚痴であれば所構わないだろうけど、この場合酒が入って当たり前のはず。プライベートで考えれば家庭事情があるかもしれない。まあ、考えられなくはないが悠長に酒を買って帰ろうとしてる場合ではないはずだろう。あとはなんだろうか? 学校行事に担がれたことはあったけど、僕にできることなんてたかがしてれるし、良いとこ文芸部か何かの添削でもするくらいしかやりようがない。まてよ? この間通販の話をしていたな。へんなねずみ講にハマってるんじゃないだろうな? いやいや、可能性はあるな。悪いがその話はパスだ。というか、そんなもの早く止めろ。奥さんに見つかったらただじゃ済まないって。
「ん? どうした? そんな怖い顔して。別に構えるような話をしようってわけじゃないんだが……」
「なあ、悪いことは言わないから今すぐ手を引けよ。どうしようもなくなってからじゃ助けられないんだから。奥さんと二人の子供のためにも」
「はあ? 何の話だよ。勘違いしてんのか? 怪しい話じゃないっての」
「ねずみ講じゃないのか? この間言ってた通販の」
 とたんに寿史は大声で笑い出した。
「あれね! いや、悪い。俺もてっきり騙されたよ。いやいやお前がそんなに心配してくれるとは思わなかった。すまんな。実はあのあと嫁さんにこってり絞られてさ。まあ、その日のうちにご破算にはなってたんだけどさ、本当はお前がやるって言ったらやるつもりだったんだよ。煮え切らないみたいだったから俺も躊躇して踏み出さなかったのさ。結果的にやらなくて正解。今回も俺は教授に助けられたってわけ」
 出っ張った腹が笑うたびにテーブルを揺らす。灰皿が小さなテーブルの上の踊りまわっていた。
 呆れたやつだ。おいしい話にはすぐ飛びつくくせに胡散臭さがあると僕に判断を仰ぎに来る。よしんば抱き込んで一蓮托生狙いとは。挙句には責任転嫁されそうな気配すらある。その時は一生かけて呪ってやるから覚悟しておけよ。
 しかしまあ、教師とはストレスの溜まる仕事だと聞いた。危ない橋を渡るようなことを何度もしでかしてきた彼だが、本当に渡ることは恐らくしないだろう。仮にも家族を持ってる大黒柱なのだから。それでもストレスに耐え切れなくなればスリルを求めてそんなことをしでかそうとするのだろうか。あまりにも馬鹿げてると思うのだけど。
「で、本題に入ろう」
 ずいっとテーブルに肘を立てて寿史はにじり寄ってきた。

「大園祐子って、覚えてるか? 覚えてるよな?」
 誰だ? と記憶を辿るのに数秒かかった。それほど耳にしていない時間が長かったのだから記憶と記録を認識して一致させるには時間が必要だった。寿史の言う名前は高校の同級だ。クラスには誰がいた? 女子で大園、大園…… ああ、そうか。
「…… ああ、覚えてるよ」
「どうしてるか、聞いたことはあるか?」
 そうだ、卒業して初めての同窓会に、彼女は来なかったんだ。地方の国立大に合格して引っ越して、一度だけ絵葉書をもらった記憶がある。あれはどこにしまってあっただろうか。雲海の中に浮かぶ山々の写真がいかにもチープで彼女らしかったけど、結局返事は書かなかった。いや、書けなかったんだ。
「卒業後引っ越したって聞いたっきりかな。寿史は何か知ってるの?」
「まあ、俺もつい最近聞いたばかりでお前に言おうかちょっと悩んでたんだけどさ……」
 そこで言いよどんで、彼は懐から手帳を開くと、中から写真らしき物を一枚出した。そこにはだいぶ大人びて髪型も変わっているものの面影は変わらぬ女性が写っていた。そう彼女は美人と言って差し障り無いほど整った顔立ちをしていた。スタイルこそ他の女子と比較にはならなかったのは、彼女は痩せすぎだったのだ。もっと太りたいと同性の間では禁句ともいえる言葉をいつも口にしていた。写真を見る限り、あの頃は幾分かふっくらしたように思える。幸せな生活を送れているのだろうか。
「今、彼女、何をしてるんだい?」
「そうだなぁ、アーティストってやつなのかな? 今風に言うと」
「歌手なの? バンド組んでるとか?」
「うーん、肩書きがいろいろあるらしい。シンガーソングライターってわかるか?」
「ああ、うん。自分で作詞作曲してる人だよね」
「そう。それと絵画も描くそうだ。ヨーロッパで個展もやってたんだと。マイナーだが名が知れてるらしい」
「だから、アーティストなんだ」
「芸術家だよな」
 二人して、それから押し黙ってしまった。
 憧れの少女との距離は20数年の間に、こんなにも遠く隔たりができてしまったことに気づいたのだった。自分が間違ったわけじゃない。彼も間違っていない。彼女だって。ただひたすら、自分の目指す道を歩いた結果が距離になっただけ。いや、初めから隔たりはあった。本当はどこにも交わる場所なんてなかったのだ。でもあの日の出来事は確かに三人が一緒にいた事を焼き付けている。
 引き寄せられた3本の道筋は、ある視点からであれば交わるように見える。でもそれは少しでも角度をずらせばたちまち交わらなくなり永遠に平行線となって進むだけなのだ。
 アーティストとは恐れ入った。芸術家肌とは感じていたけれど、マルチプレイヤーとして名を馳せるまでになるとは思いもよらなかった。でも、彼女の性格を考えれば容易に想像できたかもしれない。目標ができればひたすら走り続ける強い意志の持ち主で、持ち合わせた才能に甘んじることなく自分を磨き続けられる女性。彼女はまだあの言葉を信じているのだろうか。

 ある能力が秀でている者はなかなか周囲にとけ込めない。集団やグループとは同じようなレベルの者たちが群れをなすことであって、派閥学閥と大きな差はない。その同じ空間において何かだけ抜きん出て秀でていることが周囲に知れると、人は大抵距離を置きたくなるのだ。その能力の恩恵を受けたいと思う反面、自分では到底理解できない並ぶことのできない能力に対し大きな劣等感を受けるのだ。どうあがいても勝つことのできない者に異端のレッテルを張りつけ集団から隔離することで自分たちの世界の体裁を守ろうとするのだ。
 大園祐子はそのような仕打ちを受けたていた女子の一人であった。
 男子のガキ大将が指令するささやかな仕打ちに比べ、女子集団の徹底した嫌がらせはきっと体験したものにしか理解できないだろう。もちろん僕や寿史に分かるはずもなかった。
 実のところ、彼女はその秘密さえ知られなければ辛い生活を強いられることもなく、楽しい学生生活を最後まで送ることができたに違いない。しかし、それを壊してしまったのは他ならぬ僕らだったのだ。

 彼女の写真をそっとテーブルに置く。憂いを秘めた眼差しの彼女は今もなお僕らを叱責しているように感じられた。今だから正視していられる。でも、当時は写真ですら彼女の顔をまともに見ることができなかった。それはきっと、彼女が眩しすぎたからだろう。下劣で邪な僕らにとって彼女は女神のごとく神聖で無垢な存在だったからだろう。
 だから、僕は彼女に問いただすことができなかったのだ。

 どこからとなく伸びてきた細い指に、その写真は取り上げられた。
「お前…… 有瀬じゃないか!」
 振り返った先の人物に寿史は驚いていた。
「おひさしぶりですね、先生。二人して何を密談してるのかと思えば、渦中のこちらもご無沙汰してる方じゃないですか。祐子先生ですよね? これ」
「あ、君、知ってるんだ?」
「なんでお前が知ってるんだよ。つーか、祐子先生って何?」
 取り返そうと寿史は手を伸ばすが、菜摘はいともたやすくそれをいなしてみせる。運動でもしてればともかく、太っ腹の緩慢な動きに女性とは言え若い彼女が捕まるはずがない。
「加賀屋先生。私これでも星鈴のOBですよ? 先生の授業はいくつかサボリはしましたけど、落とした単位もなければ出席日数も足りてました。もちろん特別授業にも参加してました」
「それが知ってることとどう関係があるんだ? ……あ、そっか」
 寿史は思い出したようだが、星鈴学園には地元を含めた有名人、著名人、作家、画家、音楽家等々の特別講義が催されている。様々な分野における成功例や活動内容を知るためと歌っているが、その方面に少しでも足がかりを付けるためのきっかけとも言えなくはない。事実コネクションを結んでチャンスをモノにした生徒も中にはいる。
「祐子先生の講義は私が3年の時でした。他の先生方が一日一時限で流してしまうところを三日もかけて丁寧に説明してくれましたからよく覚えてます。確か、その時加賀屋先生は怪我で入院されてた気がしますけど」
「ぐ、そんなことまでよく覚えてんな。怪我っていうか、ギックリ腰だ。前の週、子供の運動会でちょっと本気出したら体が悲鳴あげたんだよ」
「それはご愁傷様でしたね。先生に会えなかったことをとても残念そうにしてましたよ」
「後で電話もらった。嫁さんがな。お大事にって言ってたって。俺はそれどころじゃなかったし」
 なんだ、と、いうことは彼女は少なくとも数年前にはこっちに戻ってきていたってことか。そんなこと一言も聞いてなかったんだが。
「と、悪い。その分だと、あいつやっぱり教授のところには電話しなかったんだな。俺はてっきり知ってるもんだとばかり思ってたからさ。今、話しててどうもおかしいとは思ったんだよ。有瀬が知ってるっていうのは別の意味で驚いたけどな」
「ふーん、先生は私がそんな極悪で不良学生だと思ってたんだ。実際その通りだったと思うけどね」
「そうじゃねえって何度も言ってるだろ? 元担任教師をからかうんじゃない。全く、お前ほど手のかかった生徒は居なかったよ。ほんと」
「それはそれは、大変お世話になりました。ちゃんとお給料分働いたってことですね」
「ちがわい! 時間外も含めたらちっとも割に合わないっての! もういい、ちょっと黙ってろ。俺は教授に話があるんだから。お前はそこのレジでも手伝ってこいや」
「はぁい、わかりましたよ」
 拗ねた声を出して席を離れる菜摘。その横顔が少しだけ小悪魔的な表情をしていたのを僕は見逃さなかった。寿史の前ではあえて先生と生徒と言う以前の関係を保ちたかったのだろうか。それとも寿史の前で茶目っ気を見せることで僕との関係を隠しておきたかったのだろうか。どちらにしても僕は二人のやり取りに口を挟めなかったわけだ。

 話を戻そう。
 寿史が祐子という思い出の人物を持ち出してきたのはそれらしき理由があったのだ。
 普段はアーティストとして活動している彼女は、拠点を別のところに置いているそうだ。こちらにはまだ実家が残っているらしく三ヶ月に一度の割合で戻ってくるようだが、先日たまたまタイミングが合ったのか、寿史は彼女と会う機会があったそうだ。
「それで、寿史は僕に何をさせようって言うのさ? 今更彼女に会って昔話に花を咲かせろってことならお断りだよ。僕はそんなに口が上手いわけでもないし、語って聞かせるほどの経歴があるわけじゃない。エスコートするなら断然寿史の方が楽しいんじゃないの?」
「そんなに会うのが怖いか? まあ、その原因を作った俺が言えた義理でもないんだけどな。とりあえず、彼女はお前に会いたがってる。何か言いたいことがあるなら伝えてやるって言っても、直接言いたいからってさ。ああ、そうそう、彼女、お前が物書きやってるのかなり前から知ってたらしいぜ。ほら、ネットで投稿してたって言ってたじゃん? かなり昔の、俺もお前に読ませてもらったヤツを知ってたよ。案外ずっと見ててくれたのかもな」
「またそんなこと持ち上げて。そりゃあペンネームだってひねりが聴いてるわけじゃないんだから、読む人が読めばすぐわかるでしょ。クラスの連中だってあの頃は毎回メールで感想送ってきてたからね。茶道部の、ほら、なんて言ったっけ……」
「松浦? はー、あいつならしつこく駄目出ししてきそうだな。一般論で言うと~、なんて口癖でさ」
 あの頃は松浦さんも含め大勢の同級生が期待して激励の言葉を送ってくれていた。そのおかげもあって第一作目が完結まで書き切ることができたのだ。しかし、僕はその作品をネット上では最終章まで掲載しておらず、未完のままで終わらせている。
「つーかさ、あれって終わってないんだろ? 続きがお前の家にあったじゃないか。なんで載せねぇんだよ。今となっちゃ少々稚拙な物かもしれないけどよ、尻切れで止めとくのはどうかと思うぜ」
「良いんだよ。終わってなくて。もしかしたら、この先結末を変えたいと思うかもしれないし、ある日突然そのままで出すかもしれない。でも出してしまったらあの作品は完全に終了してしまうんだ。終わらない方がその先を自由な発想で想像することができるけど、終わらせてしまったらどうあがいてもその結末にしかたどり着かなくなってしまうんだよ」
「ふーん、そういうもんかね」
 怪訝そうな面持ちで腕組をするところを見ると、どうやら寿史的には納得できないらしい。彼だけではなく他の読者からも同様の意見をもらってはいるが、僕自身、あの作品は続きを掲載する気はない。もっとも、今掲載してしまうとほかの媒体で発表することが困難になってしまうと言う事情もある。また、処女作であるにもかかわらず、僕の原点からは隔たりがあることも要因の一つだった。

 すると、いきなり小さなテーブルに品書きが勢いよく立てられた。
「お客さん。そろそろオーダーしてもらわないとマスターも困っちゃうよ?」
 不機嫌そうな菜摘の顔が見下ろしていた。見渡せば、既に飲み屋の時間に突入しているようだった。大した話をしたつもりはなかったのに、かなり時間が経過してしまっているようだった。
「いけね! こんな時間かよ? とっとと帰らねぇと嫁さんが怒り出すな。悪いが俺はこの辺でお暇するわ。なあ、今日は俺の奢りにしとくからさ、彼女と会ってやってくれよ。俺じゃどうにもならなくてさ」
「なんとか言って、奥さんにも言われてるんじゃないの? 浮気じゃないのかって」
「実はな。そんな気はないのに相手が相手だからな。流石にこれ以上は俺も突っ込んで会い続けるわけにもいかないんだよ」
 身支度を整えて、寿史は逃げるようにクインベリーをあとにした。帰り際にセッティングはしておくと豪語していたが、僕はまだ了承したわけではない。頑なにそう思っていることに気がついて、自らの滑稽さに苦笑した。そんな僕に向かって傍らに立っていた菜摘が耳打ちしてきた。
「ねえ、まだ時間あるでしょ? 奥で食事作ったから食べて行って。どうせこのあとどこかで食べるならどこで食べても同じだし、ちょうどマスターも娘さんも食べ終わったところだから」
「は?」
「クインベリーは料理屋じゃないんだからこっちじゃ食べられないでしょう。それとも私の作った物だと信用できないかしら? とにかく、ほら、飲まないんだからテーブル開けて」
 追い立てられるようにして、僕はカウンターの奥へ連れ込まれてしまった。

 有瀬菜摘は僕にとって類希なる人物である。
 今まで出会った女性の中で恐らく一番印象的であり、最も親しく、優れた視野を持って僕に相対してくれている。飛び抜けて美しいわけでも、スタイルが良いわけでも、才能があるわけでもない。他の人から見れば極一般的で平均的な若い女性の一人として映るのだろう。しかしどうして、僕だけそのように感じるのか未だに理解していない。

続く(かもw)

未校正 推敲無し 原文のまま

名前: